もくじ
人付き合いも技術であるという認識に負い目を感じてはいけない
理詰め人間にとって人付き合いは最難関

理詰め人間代表のニシジマです笑かれこれ20数年、いや30年近く理詰めで生きて参りました笑そして、打算的に生きることは損をする生き方だなと思ったので、『理詰め人間がするべき3つのこと』についてまとめていきます!
私みたいな理詰め人間にとっては人付き合いって最難関なんですよね。
何が難しいかって答えがない問題だから難しい。本当に意味がわからない。同じ対応をしても受け取る相手が異なるから返ってくる答えが全員違う。
当たり前といえば当たり前なのですが、これが難しい。
理詰め人間・公式人間にとっては1つの公式でバシッと決まってくれないと困るわけですよ笑
でもみんなちがうf(x)をもってるので、私がある数字xを投げかけても違うf(x)が跳ね返ってくるわけです。
屁理屈な説明です笑
なので、『臨機応変』という言葉が嫌いな私たちにとって人間関係の構築とは最難関に位置するタスクなわけです。
人付き合いも技術の1つだという認識に負い目を感じるな

人に優しくする、損得なしに何でも行動ができるというのは素晴らしいですが、こういう理詰め人間はあれこれと行動前に考えてしまう癖があります。
まあ言うなれば損得勘定です。
赤裸々と語ってるうちにどんどん筆者ニシジマが嫌なやつに思えてきました笑
そういう狭量なタイプの人間にオススメな考え方がこちら。
『人付き合いも技術の1つだという認識に負い目を感じない』
ということです。『人たらし』を開き直って地でいけば良いという話です。
(弁解ですが、こういうことを考えるのも腹黒くなくて純粋っちゃ純粋だとも思えるんですが笑)
割り切って、『人付き合いも技術の1つだ』と思えるようになれば、(つまりさっさとそう思って開き直れば)
「それ良いな。」
と思った行動を気兼ねなくコピーすることができます。
最初は本当にコピーですが、コピーを20回ほど繰り返すと板について本物の行動に変わります。
つまり、人付き合いの技術習得も英語学習やピアノや受験勉強のようにコピーから始まってその内自分のものとなるという同じ土俵に置いてあげるのが重要です。
『人付き合いを技術だ』と言ってしまうと冷たい人間であったり、心から動けないのか?と怒られそうですが、動けないものは仕方がありません。
だって動けないんですもん。
だったら、その動かない心が動くようになるまで待つんでしょうか?
いやいやいや。100年経っても動きません。偽善(コピーの意識的な善の行動)から始めましょう。いつの間にか本当の善になってるはずです。
技術習得において具体的に行うこと

では『人付き合いは技術』であるとして、具体的に何をすればよいのか?
私はこれから以下の3つをしようと思います。
- 挨拶を『きちんと』する
- 名前で呼ぶ
- 心が動いたシーンをメモする
この3つです。具体的に解説していきます。
1.挨拶を『きちんと』する

挨拶って大事だと思うんですよ。いや、きちんとしていない私が言うのもあれですが、おはようございます!ってニコッとされるとまた来ようとかまた会いたいと思うじゃないですか。
本当に。よくいくうどん屋のおっちゃんの愛想がすごくいいんですよね。何となく足を運んでしまう感じです。
2.名前で呼ぶ

人の名前って実はなかなか呼ばなくないですか?
特に中途半端な関係だと『名前で呼ばない』ということがよくあります。気恥ずかしい感じからくるパターンもありますし、単に覚えられないというのもあります。でも、
「ニシジマさん。今日の会議で使う資料なんですけどね。」
というか、
「すいません。今日の会議で使う資料なんですけどね。」
は大きな違いがあると思うんです。まあ名前を呼ばない、そして覚えない私が言うのもなんですが。
ということで、これからわざと名前を呼びます。
3.心の動いたシーンをメモする

心の動いたシーンをメモするってすごく大事だと思うんです。
人間って良いことも悪いことも忘れっぽい性格なんじゃないかなと思います。
女性は違うかな?男の私は尚更忘れてしまいます。
してもらったこともされたことも忘れてしまいます。なので、10年間つけた日記を見返すと、
「おぉぉぉ!あいつこんな良いやつだったのか!」
と思う時はザラです。すみません。
先日登山に行ったんですよ。で、女の子がこけて泥だらけになっていてそっとウェットティッシュを渡す男の人がいたんですよ。
なるほどと。
私は『自分が』泥だらけになっても別に気にしないのでウェットティッシュを持って行かなかったのですが、
たとえ『自分が』泥だらけになるのを気にしないとしても、『他の人に渡すかもしれない』という意識でウェットティッシュを持っていくべきだな
と感じました。
もちろんその彼が人のために持ってきたのかはわかりませんが少なくとも次回からの私の行動の変化の1つとなります。
書いていてなんと理詰めで愛がないのだろうと思いますが、仕方がありません笑そういう人なんですから笑
だから、潔く勉強しようよ。という話なのです。自然に心からスマートな行動ができればそれほど苦労のないことはありませんよ笑
心から席を譲れる人は物事を局所的に見ない

最近ずっと思ってたんですよ。
例えば席に座っていて、前におばあちゃんが立っていた時を想像して見てください。
(席を譲ろうかな…。でも、そんな年じゃないって怒られるのちょー嫌だな。)
とこういう感情が湧いてきます。少なくとも席を譲ろうかなというところまでは一応はいくんです。一応笑
でも、怒られるのがダルい。が先行して結局もうどうでもええわ、となって座ってしまいます。
ここで、心から席を譲れる人ってどういう人なのかな?
と考えてみると、
たとえそのタイミングでおばあちゃんに
「そんな年じゃない!」
と怒られても、一切関せずに、まあそれはそれ。と思えるんじゃないかなと。
自分の行動とのみ対峙していて、そこで譲る自分と譲らない自分だけにフォーカスできているのかなと。
つまり、そこで怒られるかどうかの部分に関してははっきり言ってどうでも良いというか、『物事を局所的に見ていない』のです。
つまり、たとえ怒られても不快感を示さずにいれる強さ、大きい視野があるのかな。と思うわけです。
一方で、私は譲って怒られた時の不快感に怯えてしまい譲れないという結果に陥る。
そんな感じ。
『情けは人のためならず』という、めちゃくちゃ大局的に物事をみることができる人間が、心から席を譲れる人間なのかなあなんて考えてました。
要するに物事は大局的に見て、一時の感情に対して怖がったり嫌気がさしたりするなという話です。
コメントを残す